小論・雑記
子どもは希望の光です
子どもは、私達が未来につなぐ希望の光であり、まちの光・国の光でもあります。そして、教育のもとは何といっても教育者です。稀代の教育者として、近代では吉田松陰や西郷隆盛らがあげられますが、吉田はどうも生活感が無く怜悧な幕末の志士達を育てたようですし、西郷は温かいというほか輪郭がよく分からない面があります。そこで、私達の身近なところから、教育の原点となれる方でないかと思われる二人の先生を紹介します。
岡野 明先生 ―生涯河原乞食考―
この一文は、故木下順一先生が主宰したタウン誌「街」2000年新年号の特集「もう一度会いたい人、会いたい事」に寄稿し載せていただいたものです。
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去る11月14日、故岡野明先生の最後の台本による市民オペラ「メリー・ウィンドウ」が幕を閉じた。
病を宣告されて以来、昨年8月に亡くなられるまで、何度か妻とともにお見舞いにうかがうと、先生はいつも、6人部屋の片隅の小さなテーブルにノートを広げ、静かにペンをとっておられた。私達は、オペラの話、舞台塾の話、文化・スポーツ財団の話など、あれやこれや尽きないお話の後、辛くなって、痩せ細った手と握手し、「また来ます」といったまま、お別れしてしまった。奥様にうかがうと、一人部屋は死ぬ時だからと嫌がっていたが、最後は、痛むとみんなに迷惑をかけるからと自分から願い出て、移ってからは、「一人部屋はいいね、こうやって散歩も出来る」と、点滴をぶら下げながら歩き回っていたとのこと。
何でも楽しいものにしてしまう、先生らしい生き方・死に方・・・・・・。岡野先生を知る人は皆、思い出すたびに、何ともほのぼのとした優しい気持ちにさせられる。「こんな先生がいなくなると、本当に寂しくなるよね」、しみじみと妻がつぶやいた。
私達が岡野先生と出会ったのは、食卓での娘の一言からだった。
ポツンと、「今度来た校長先生、朝礼で泣いてたわ」。どうして?「何か、生徒の万引きがあったみたい」。フーン・・・・・・。
それだけのやり取りであったが、当時の凌雲中学校は、中央・松川の統合後、荒れることを恐れた先生の側の、父母が眉をひそめるほどの徹底した管理教育の場であったから、生徒の行いに涙する校長先生なんて!子供心にも感じるものがあったのかも知れない。その後、何度か仕事で凌雲中学校を訪れる機会があったが、先生の姿は、いつも、校庭での草むしりの中にあった。
学校の回りをうろうろしていると登校拒否の子供達が先生に近寄ってくる。
そうすると、「○○子、そろそろ出てくる気になったかい」と、あのギョロッとした、しかも温かい眼で、声を掛けられ肩に触られるのだから、子供達もたまったものではない。子供達は、ニコッと笑って逃げ出すが、本当に考えさせられてしまっただろう。
こんな光景を幾度か拝見したが、後でうかがうと、先生は、大学卒業後、東京へ出て役者になることを志していたとのこと。こんなことを不自然でなく、キザでなく出来たのは、先生が素晴らしい教育者であったことばかりでなく、役者としても一流だったからではないだろうかと、今にして思う。
還暦で先生方や子供達に赤いちゃんちゃんこを着せてもらったり、退職記念に一人芝居をしたり、市教育委員会はじまって以来の出来事も、岡野先生ならではのことと思う。
その後、文化・スポーツ財団で一緒に仕事をする機会に恵まれた。市文化祭を市民文化祭の名前に変え、第一回はミュージカル「ウスケシ物語」を、第二回は欲張って総合芸術を目指そうということでオペラ「カルメン」となった。既成の台本は大正時代の文語体で使い物にならない。フランス語の分かる岡野先生が台本を書き、演出し、難しい芸術家達の心をまとめた。
市の総合計画づくりでもお世話になった。「おまえさんにだまされてやるか」と言って、構想づくりのための百人会議のとりまとめを岡野先生がこなした。
たくさんの思い出が頭をよぎる。
一升瓶を立て、「俺は河原乞食さ」と言った岡野先生の言葉。先生は、四条河原に淡々と舞う役者のような人生を目指したのかも知れない。そこに強い勇気のようなものを感じさせ、与える人であったこと、ひとりの偉大な人が函館にいたということを後の世に残すため、誌面をお借りし書き記した。
永谷潤一先生 ―小学校の思い出―
2005年1月、函館市の小中学校校長会で、「市町村合併で教育に期待するもの」と題した講演記録の抜粋です。
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今の小・中学校教育と私たちが受けた教育は何十年も前のことですから相当に様相が違っていると思いますが、私の心に深く残っている先生の話をさせていただきます。
私は中島小学校卒業です。今では珍しいことと思いますが、2年から6年まで学級替えもなく、受持ちの先生も同じ方でした。名前は永谷潤一先生。5年間、毎日同じ先生と学校が始まってから終わるまで一緒にすごしました。先生は学芸大学を出たばかりの新任だったように思います。
生徒が悪いことをすればよく殴ったりする先生でした。ゲンコツで殴るわけですから、小さいからだが吹っ飛ぶこともあるわけです。でも今では考えられないことですが、当時は親も本人もあまり文句をいわなかっと思います。
先生はピアノを弾けないので、音楽の時間は、クラスの生徒で頭がよく、美人でピアノも弾けるというマドンナのような子がピアノを伴奏し、みんなで歌うというふうでした。(当時は音楽の専任教師などおりませんでした)
その子が(いまピアノの先生になっていますが)遠足のときバナナを一本もってきました。当時はバナナは貴重品で、皆食べたことなどありませんでした。永谷先生はみんなで食べようといって、それを小さく細切れにして、「これがバナナの味だ」といってクラス全員に分けたことがありました。
こんな小さな所作、やり方のほうが、心の教育としてあとあとまで想い出として心の中に残るのかもしれません、
普段はおっかないその永谷先生が、2回だけ皆の前で泣いたことがあります。
1回目は、4年生のときでしょうか。知能テストというのがありました。
そのときずば抜けて成績がよかったのが、普段余り成績がよくなくて、本当に貧乏な家の子でした。先生がその子の知能テストの成績をみて泣いたわけです。その子の普段の生活をみていますから、可愛そうだ、がんばれということで泣いたのだと思います。クラス中がシーンとしてしまいました。
2回目は卒業間近、給食を食べている時でした。「みんなにひとつあやまらなければならないことがある」と言い出したわけです。
「僕は,食べるときに、茶碗を持たないで肘をついて食べる癖がある。5年も一緒にいたので、それが皆に移ってしまって、みんな肘をついて食べるようになってしまった。申し訳ない。これからは、茶碗や皿は、キチンと持って食べるように気をつけてくれ」こう言って泣いたわけです。
この先生は、毎日のように、私の家の裏にある酒屋さんの立ち飲みで、焼酎を飲んで帰るのが習慣でした。「また飲んでる」とはよくいわれていたようですが、独身でしたし、誰もとやかくいうとか、悪く言う人はいませんでした。
つまるところ、先生の「愛情の深さ」をみんなが認めていたのだろうと思います。
先生の何気ない・ほんの小さな行動でも、子供にとっては心の片隅に残って、その子の人生のどこかで糧になる、そういう先生が増えてくれればいいなあと思います。
2007年1月15日
ブログ「アリババのつぶやき」掲載分を転載 |